◆模範解答を超えるとは何の謂ぞ

とある国語教材のはしきがきで、筆者である国語科講師が「型にはまった模範解答を書く」ようではだめであると難ずる文を目にしました。この文の筆者はさらに、読解法や解答法のような「甘いワナ」に陥らないようにという趣旨のことを強調していました。「客観的読解法」や「論理的解答法」、ならびにそれらに基づく「解答モデル」を追究する私とは、不思議なくらい真逆に見える主張ですね(笑)

それはさておき、そもそも「模範解答」とは何でしょうか? 現代文科に限定した話をしましょう。入試問題や模試の解答例を、たかだか数人の予備校講師などが、数時間~数日程度で作成した「自称正解例」であるなら、ときに優秀な受験生に「超え」られてしまうとしても、さしたる不思議はありません。事実、東大現代文などでは、プロの「解答例」なるものが、しばしば誤答だ、零点だと、批判を受けている始末です。

それでも、東大現代文の解答例作成を任されているようなプロの予備校講師たちは、ごく一部の例外はあるかもしれませんが、勤務先予備校ではトップと目される講師たちでしょう。そうでなければ当該予備校が東大の解答例作成など依頼するはずがないからです。とすれば、その「解答例」を受験生が、しかも入試の本番中という制約下で、「超える」などということは、そうそうあるものではないと私は信じたい。いや、そもそも超えよと鼓吹すべきではないと思います。

それとも、東京大学受験生ともなれば、みなアインシュタインやエジソンの卵で、そのような特殊異能の人たちを指導しうるほどの才がなければ予備校講師など務まらないということでしょうか。それならそれで、私には関係のない特別な世界の話だと考えます。(そういえば「模範解答」とは呼べないものがしばしば提示されるのは、その意図によるのでしょうか……)しかし、たとえば、令和4年度の東大現代文問題の「出題の意図」には、「論旨の展開を正確に捉える読解力と、それを簡潔に記述する表現力が試されます」などと記されているのですが、ここから模範解答を超えよという「意図」を読み取るとすれば、我田引水でなければ、単なる非論理でしょう。

まして、もし字義通りに「模範」たる記述解答が可能であるとするなら、それは「見ならうべき手本。規範。」(広辞苑 第七版による)とすべき解答であるということになり、数学科などとは異なり、現代文という科目の性質上(現代文オリンピックは存在しないです)、いかに東大現役合格当然といった水準の受験生といえども、それを超えるどころか、作成することすら困難なのではないでしょうか。多くの受験生を前に「模範解答など超えなくてはならない」と語ることが意味するところを、よくよく考えないといけないでしょう。

この問題は、現代文科で記述解答作成について「教える」立場にある者にとっては極めて重く、仕事の根幹にかかわるものと私は考えます。たとえば、「教える」立場にある者が、自ら「模範」も「方法論」も否定するとすれば、どんな「論理的」で「有効」な授業が可能なのか、といった原理的な問題です。「型にはまった」などと気安く非難するけれど(こういう言葉遣い自体は、「小手先のテクニックではだめだ」などと同様の、底意の透けて見える陳腐なステレオタイプにすぎませんが)、「型」を否定するなら「論理」など語りえないはずです。「型」も「模範」も否定された受験生には、どんな応用が可能なのでしょうか? 現代文科の入試で「模範解答」(が本当にあるとして、それ)を超えることが大学の真の要求であると信じるのなら、「論理」とか「方法」とか「メソッド」とか「基礎と応用力」とか、そういう考え方は全滅するでしょう。

私は、自分の提示する解答を「解答モデル」たるべきものと考えています。面倒なので、「模範解答例」でも結構ですが、その意味するところは極めて真剣に追究してきました。「模範解答例=解答モデル」とは、教える側が責任を持って学習者に提示すべき、自身の方法論的一貫性と論理的な思考が明快に体現された、説得性のある解答例であり、学習する側にとっては、学習するに値する一般性、汎用性のある教材的価値をもつ、学習目標となる解答例なのです。私はそういう解答モデルの作成を目指したい。それだけです。

私は普通の予備校講師であり、現代文の学力を伸ばしたいと願う大多数の人たちのために、役立つ方法論を向上させようと日々努めています。もちろん「甘いワナ」など仕掛けてはいません。私の授業を少しでも受けたことのある人ならば、みな努力の必要性を私がしつこく説いていることを知っているでしょう。受験生の皆さん、二次試験まであと1か月あまり。ぜひ「模範解答例」に近づく努力をしてください。(予備校など必要としない天才は、この限りではありませんが)