◆「客観的に読む」?

 著者=他人の書いた文章を読んで、その特定箇所の「意味」について「どういうことか、説明せよ」と問われ、「正しく説明」したり(記述式)、「正しい説明」と思われる文をひとつ選んだり(選択式)すること。それが現代文の問題を「解く」ときの、最も標準的な行為ですね。

で、そんなことがどうして可能なのでしょうか?
その「正しさ」の根拠はどこにあるのでしょう?

常識的な「正しい読解」「正しい答え」について、その妥当性を検討してみましょう。

 第1に、当該の文章の著者がいて、著者が読者に伝えたいこと(主観a)を文章表現というもの (客観a) の形で記述します。言うまでもなく主観aと客観aとは同一ではなく、むしろまったく異質です。簡単に言えば、「頭の中のこと(意識a)と紙に書かれたもの(文字群a)とは、まったく別物だ」ということです。
 第2に、入試問題などの出題者がいて、上記文章(客観a)の内容(主観a)を「解釈」(主観b)し、その解釈に基づく「正解答」(客観b)を求める設問を作成します。

 おそらくこの時点で、常識的には、「著者の主観a」=「出題者の主観b」という前提が存在するでしょう。そうでなければ、そもそもテストを作成して受験生を正解・不正解等で評価することなどできるはずがないではないか、と。しかし、そのような「前提」の正当性は自明のことではないでしょう。しかも、出題者の解釈bと設問の正解答bとでさえ、第1の場合と同様に異なっているのです。

 第3に、受験生や教師・講師などの解答者が、本文(客観a)と設問要求を解釈し、自分なりの「答案」(主観c)を思い浮かべます。それを記述解答や模範解答例として解答用紙や黒板などに書けば、それが客観cです。
 こうして見ると、「正しい読解」「正解」について、

    主観a=主観b=主観c

という等式が成立可能であるという、極めて無理のありそうな前提が、素朴に広く了解事項とされているようです。相異なる主観三者間の一致を前提として、「正解」が存在すると信じられているとすると、当然問題は……

そんな複数の主観の一致があると言いうる根拠は?

ということになりますね。
 この問題については、しばしば「客観的に読解する」とか「論理的に考える」とか「本文に従う」といった言葉が無反省に多用されています。その種の主張は概ね次のようなものです。すなわち、「本文(客観a)を客観的・論理的に読んで正しく理解(主観c)すれば、筆者の言いたいこと(主観a)、あるいは出題者の意図(主観b)を正しく把握できている(主観c) のは自分の解答(客観c)だということになる」といった、臆断だらけの怪しいものが多いのです。
 上記のような、複数の人間の主観間の一致と、さらに主観―客観間の一致とを大胆に(?)信じられるというのは、驚くべきことではないでしょうか。

  思うに、現代文という科目では問題の作成者と問題の解説講義者とには(そして、受験生にも)、「主観間の一致」や「主観―客観間の一致」という無反省で怪しい前提を慎み、自らに厳密な客観性の規範を強いる潔癖さが求められるのではないでしょうか。そして、その厳密な客観性は上記の「客観a」すなわち本文表現それ自体に徹底して基づくことでしか得られないのではないでしょうか。
 私(中野芳樹)の「客観的速読法」は、この「厳密な客観性の規範」を方法論のベースのひとつとしているのです。