◆記述式導入無用論

「記述式の導入」=「表現力の評価」……ではない!
まして、「記述式の導入」=「表現力の向上」のはずがない!

(本稿は2020年6月に改訂しました)
すでに、2020年3月段階での文部科学省「大学入試のあり方に関する検討会議」で、「共通テストでは記述式問題の導入は不要」「民間の英語検定試験では学習指導要領の示す学習の到達度は測れない」「高校教育の課題は入試だけで変えられるものではない」など、当サイトで私が繰り返し述べてきたこと、そして本稿でも述べていることとほぼ同内容の認識がオープンに語られています。そして、2020年6月16日付の「大学入試のあり方に関する検討会議(第9回)」における「参考資料1」では検討会議での「これまでの主な意見の概要」がまとめられ、これを読む限り、当サイトでこれ以上類することを書き連ねる必要はなくなったと考えます。(「語られている」という事実は、もちろん「共通認識とされている」ということとは異なりますし、まして「権力者が専門家・現場経験者等の多数意見に耳を貸し、公正かつ賢明な判断を行う意図をもっている」ということとは程遠い。あまりにもしばしば程遠い。それが現実ですが、そうだとしても、)このサイトとしては、なるべく本来の主題である「表現力とは何か」「表現力はどう養いうるのか」「表現力の測定と記述式試験との関係」といった論考に絞り、それらを掲載してゆきたいと考えています。現代文や小論文の学習者・受験生、教育関係の方々に少しでも貢献できればと意図したこのサイトで、文科行政批判のようなことを書かざるを得ない状況は極めて不本意です。いい加減にしていただきたい(笑)

以下の記述は、2020年1月までの情勢のもとでのものですが、残しておきます)


論点とするところは、そもそも「表現力」「記述力」などと誰もが自明のものであるかのように簡単に口にする「学力」が、決して自明でも単純でもなく、受験生に何か記述させる形式のテストをして基準通り採点しさえすれば表現力を測定できるなどと考えることは、論理的な誤りではないかというものです。さらに、論の必然的な帰結として、以下の各項を論じる予定です。

1.もし数万~数十万人の受検者の記述答案に対して、数百~数千人もの採点者による一律公平な採点の可能なテストが存在しうるとすれば、それは穴埋め問題などに近い極めて単純明快な問題で、内容的にも日常的言語運用能力などしか測定できない低水準のテストである。他方、大学入試は当然ながら高等教育を求める大学入学志望者の基礎学力測定に適した試験でなければならない。したがって、大学入学共通テストに記述式を導入することは明白な誤りである。(昨今の報道ではなぜか「採点ミスをゼロにできないから」「自己採点にずれがあるから」の2点のみが指摘されるようであるが、それらはあくまでも技術上の問題であり、本質的な問題点ではない。それらの「問題」を強調することには「改善の余地」があると思わせる効果があるので、不正な記述式導入を断念しようとしない者たちに利をもたらし、むしろ癒着や利益相反といった不正問題も含めた、様々な根本問題を隠蔽する効果がある)

2.ある大学・学部が入学志望者に要求する意味での「表現力」「記述力」があるとすれば、それは基礎的な学力とはいえ、まさしく当該大学・当該学部の専門的な能力・教養を有する大学教員相当の者にしか十分には理解しえない。それゆえ、厳密に言えば、彼ら自身の出題と評価(採点)による以外、正確かつ公正に測定することは不可能である。したがって、狭義の(本来の)記述式試験は各大学・学部における個別試験でなければ意味をなさない

3.所謂「表現力」も含めて、初等・中等教育において習得目標とされる一般的な「学力」と、大学以降の高等教育において要求されている専門的な「学力」は同等とは言えない。したがって、大学等に進学しない約4割強の高校生たちのことを考える限り、「高大接続」の推進にも疑問点が残るが、少なくとも「大学入試を変えることで小学校~高等学校の教育を変える」という意味での「教育改革」論(俗称「出口論」)は根本的に誤っており、むしろ各段階相応の教育に対して様々な弊害をもたらす

4.上記3.と同じ理由により、いわゆる「実用国語・実用的文章」は大学入試に必要がないと考えられる。たとえば、共通テストのモデルとされた駐車場の契約書や市役所のガイドラインなどの実用的文書を読んで理解する能力などは、中学校や高校を卒業してすぐに社会人として生活していくとすれば、その個人の日常生活に必要な能力とは言えるが、大学で高等教育を受けるための資質としてテストされる必要がある能力とは到底考えられない。因みに、経済界の有力者が政治家や官僚を通して教育者・研究者に「グローバル時代の有用な労働者を育成するために学校教育や大学入試を変革せよ」と要求するのはお門違いであろう。企業に必要な人材は、自ら採用法・人材評価法を工夫し、雇用・評価にあたっての自社のポリシーを公開して求人すべきである。さらに従業員教育も自己責任で真剣に実施しなければならない。現有労働力への不満を学校教育や大学入試のせいにするのは、企業オーナーや経営者たちの責任転嫁である。大学は職業訓練学校ではない……(もちろんこの指摘は、建前論や理想論に走ったものであることを自覚したうえで記しております。しかしながら、教育・学問の世界が、なしくずしに経済界・政界の言いなりになるものではないという建前論がろくに意識すらされていない現況にある公教育管轄のお役所や公的会議には、何か自律的な存在価値があるのでしょうか)

以上のような方向性で今後の投稿を考えています。

ただその議論に入る前に、そもそも「大学入学共通テスト(とりわけ国語・現代文)に記述式問題を導入することの是非」という明快な論点を、意図的にぼかし、すり替えようとする一部の「導入推進派」と、そのすり替えに気づかず「記述式導入の意義は認めるが……」と推進派に譲歩される方がまだいらっしゃるので、これからの「検討」における前提を明確にするためにも、今回の投稿では、以下に従来の論点を再度明示します。

【論 点】「大学入学共通テストに記述式問題を導入すること」の弊害と不正

私自身も含めて導入反対派は、二次試験などの個別試験において多くの大学で記述式試験が実施されているという事実を知っており、言うまでもなくそのことを肯定しています。むしろだからこそ「共通テストには無理に導入しようとすべきではない」と反対していただけです。ところが、導入推進派は、なぜか「共通テストに」という限定条件を無視し、「記述式の重要性」のみを説くのですが、これでは共通テストに記述式を導入すべき論拠にはまったくなっていません。

ここで、導入に反対する側の従来の主張を簡単にまとめると、下記のようになるでしょう。

【導入反対の一般的理由】 個別試験では、すでに多くの大学・学部・科目で記述式を導入しているのだから、あえて共通テストに無理な導入をする必要はない。逆に、導入には多くの弊害*を伴うことは議論の当初からたびたび指摘されてきた。記述式を導入していない大学に対しては、その大学に導入を促す施策をとればよいだけである。それにもかかわらず、多くの弊害の指摘を受けていながら無視し続け、採点業務だけでも何十億円もの税金が民間業者に支払われるという、有害無益なコストのかかることをあえてしようとすることは、明白な不正である
 *上記「多くの弊害」については、旧投稿を参照してください。

結局、今日(2020年1月12日)までの段階では、賛否の議論において上記の論点すらろくに共有されていなかった状況でした。故意に論点を共有しようとしないからこそ、上記の反対論を無視し続けて事を推進することができたのでしょう。そして未だに無視し続けている人たちもいます(呆れたことに、言うに事欠いて「抵抗勢力のせいで、教育改革ができない」「(民間試験や記述式導入が延期・白紙になって)かわいそうなのは受験生だ」などと嘯く、もはや論点のすり替えとすら呼べない無責任な居直りまで散見されました。その程度の非論理的なすり替えを平然と行う人物は、語るに落ちているのです。スポンサーがどこか知りませんが、そういう提灯記事内で彼らが記述式導入に賛成している論拠ではなく、賛成せしめた真の動機・所属の追及がなされるべきでしょう)。

これ以降の投稿では、私の本来の目的(「表現力」「記述力」そのものを論じ、そのうえで、「大学入学共通テストに記述式導入は無用・有害であり、マーク式でも基礎的な記述力・表現力は問いうる、そして逆に、本来の(狭義の)記述式試験は大学ごとの個別試験でしか実施しえないと論じること)に入りたいと思います。