◆記述式・安心はまだ早い

大学入学共通テストの国語・数学について記述式導入の見送りが現実的になってきました。それすら「安心はまだ早い」のでしょうが、それだけではなく、見送られても、安心できないのです。
 追記:12月17日現在、白紙化が確定しましたね。

残念ながら、この事態は熟議や検討などとは程遠い経緯によるものです。もちろん数年前から、無視され抑圧されながらも消えずにくすぶっていた正当な批判・糾弾の声が、担当大臣の失言というきっかけによって大手メディアのレヴェルにまで顕在化し、さらに民間業者のお粗末さや癒着の構図が露呈し、そこから一気に国民の声が政局を後押しするまでになった結果でしょう。冗談ではなくこのままなら「解答は選挙で出すぞ」というところまで進みました。しかし、「失言」「失態」と「政局」がなければここまでの進展がなかったというのであれば、一方で高度に専門的であり、他方では広く国家的な課題である「教育」「入試」について、あまりにも野蛮な決定過程を経た危ういものと思わざるをえません。問題は、このようなありさまでは、記述式導入が見送られても、「今後の検討」を同じ者たちに任せられるわけがない、ということです。ごく一部の者による暴論・ごりおし、癒着、天下り、利益相反等々と、その他多数の者たちの付和雷同・忖度・沈黙が継承されるとすれば、安心などできるわけがないのです。更迭と刷新は必至です。萩生田文科相は腹をくくって使命に殉じることができるのでしょうか。

以下に私事ですが、この問題との関連で時系列に沿って少し回想を記します。5年前、2014(平成26)年12月末の中央教育審議会「答申」では、すでに「多肢選択方式だけではなく記述式を導入」するとされていました。配布された「資料」には、現状の高等学校や大学の教育、大学入学者選抜では「未来のエジソンやアインシュタインとなる道への芽を摘む」などと、異様にハイテンションの文面が記されていて、当時は、本当にこんな幼稚なものが文科省や専門家の考えなのかと怪しんだものでした。国家の制度である中等教育や高等教育は、広く遍く国民個々のためのものであり、偏奇・逸脱を旨とすべきものではないからです。(旧制の教育下でも嚢中の錐として現れたエジソンやアインシュタインを、高等学校の普通教育や大学入試制度をいじって量産できるというつもりなのでしょうか……)

2015(平成27)年12月末の文科省高大接続システム改革会資料では、新テストの「記述式問題イメージ例」が公開されました。「叩き台」と自称するもので、大きく報道されましたが、ほとんど叩かれませんでした。「変わる大学入試!」とか「新テストはこうなる」といった既定事項化を許す無批判な報道姿勢や、さらにその「変化」(改悪)に乗じてそれに「対応している」と称する商品パッケージを売ろうとする「民間」営業トークばかりが目立っていました。この「記述式問題イメージ例=叩き台」は、グラフ、複数資料、空欄、対話形式、40字~100字の記述形式と、既に直近の「試行調査(モデル問題)」の要素をすべて持っているものであり、すなわち、この時点で十分に問題点が明らかでした。しかもその問題のレヴェルは、高校入試程度のものです。

続いて2016・2017(平成28・29)年には、モニター調査も実施され、さらにモデル問題が公開されました。役所の広報や駐車場の契約書などを出題したものですね。これらを見た私は、予備校がこんなものを真に受けて「対応」を謳い、その「予想問題集」などを用いた講義を行うことは極力避けねばならないと強く思い、実際に自分の職場で再三訴えました。

私は当時、この「国難」とも言いうる事態に対し、せめて安易・拙速の追随だけはすべきでないという旨の訴えを職場で行い、下記のような文書も作成して配布しました。(固有名詞等は当然伏字●●にしてありますが、一部公文書のように黒塗りばかりではありません。バックアップはもちろん残存しております)

――「大学入学共通テスト(仮称)」(以下、「新テスト」と称する)のモデル問題が公開されました。以下に、2021年1月の新テスト施行に向けて、●●としての対応に先立ち、大まかな前提的理解を記し、最低限度の共通認識形成の一助としたいと考えます。「新テスト」への対応は、拙速の愚を犯さず、しかも喫緊の要事とするという、ジレンマの克服です。(中略)まず、新テストの主眼は、端的に言って「大学入試を変えることで学校教育を変える」という、本末転倒の教育政策にあります。(中略)さて、我々●●として最も現実的な問題は、以下の2点です。すなわち、「記述式問題の導入」と「多様な資料の採用」との2点です。前者については、ご存知のように「短期間での客観性・公平性を確保した採点が見込める」ような記述テストなど、数十万人の受検者のある入試では、実現困難なはずであることから、紆余曲折がありました。にもかかわらず、今や「見込めることがわかった」と言い切られ、当然きわめて制約の多い、複数の解答誘導条件のもとで、さらにまた、きわめて単純な「本文中の要素表現の有無(だけ)による採点基準」での採点評価という、一部業者模試にみられる基準に酷似することとなり、CBTで実施可能なものになってゆく道筋まで見通せます。このような「記述テスト」であれば、センター試験で正解を選ぶほうがよほど考えないと難しいというケースすらありえます。後者については、(中 略)表面的対応は、ある程度やらざるをえませんが、さして意義のないものと考えられます。なぜなら、モデル問題が役所の文書や契約書や親子の対話であっても、次の本試験は図表や写真や新聞投書のやりとり、SNSのタイムラインかもしれず、また、その手の問題は高校入試段階で既に扱われており、本質的に平易であり、さらに、そもそも「何を出題するか」ではなく、「何をどう問うか」こそが、入試問題の要諦だからです。モデル問題程度のものであれば、受験生の順応力で十分対応できるでしょう。(中 略)入試自体への各種検証が未実施の段階で、不十分な情報と偏狭な「学力観」による指導の提唱・実践などは、職業倫理にもとる恐れすらあります。●●としましては、新テストと新しい学力観、そして、小論文・面接等を含む個別試験の変動への対応まで視野に入れ、●●としてのあるべき新しいカリキュラムや教材、指導法の確立を、拙速ではなく急ぎながら、模索してゆくべきでありましょう。――

2019年12月の今になって上記の文面を読み返しますと、このサイトで大学入学共通テストの記述式問題について記しました諸々の難点が、3~5年近く経っても本質的には何も変わっていなかったことが、残念ながらはっきりします。口頭でも同様のことをたびたび訴えましたが、結果としては何一つ成果もなく、むしろ私はこの件で発言し関与する機会を失うことになりました。当時を顧みるに、まあ間違ったことは言ってなかったろうにと、虚しく思うだけです。

本題に戻りますが、このように早期より問題点が明白であり、それをいくら指摘されても耳を貸そうとしなかった人たちに、今後の検討など任せることは決してできないということです。教育改革、大学入試改革について、何よりもその基である学力観自体への徹底した再検討作業を、まさにそれを怠り続け、平然と教育と入試への暴力的介入を狙い、もしくはそれを黙認し、あまつさえ称賛すらしてきた人たちに、再度任せてよいはずがありません。

記述式問題を共通テストで55万人相手に実施しようなどというのは、もはや単なる非常識・無知の類か利権の目論見かでしかないでしょうが、さりとて「記述式自体は悪くない、問題はその実施方法だ」といった手続き論や設問形式の技術論だけでも、まだまだ正論には程遠いのです。制度設計の根幹をなす学力観自体の妥当性の検討が先です。「記述式でなければ測れない学力がある」という程度の「常識」を、まずは疑うべきでしょう。「なんでもかんでも反対するな」とは言えますが、「無考えなまま無責任な賛同をするな」とも言えるのです。

(1)実際に各教科・科目ごとに記述式でのみ測りうる「学力」が本当にあるのか、あるとしてそれはどうようなものかを立証・特定し、

(2)それら個々の「学力」がこれからの社会で広く求められる、一般市民にとっての望ましい学力と合致していることも立証し、

(3)それら「学力」なるものはそもそも大学入試でも問うべきことかどうかを検討し、しかる後に、はじめて

(4)大学入試としてはどう測定可能かという、テスト技術の専門家による「記述式をいかに問うべきか」等の議論が可能となるのです。

そうした基礎的で必須の検証過程や熟議を軽視・無視し続けてきた人たちが「続投しない」とはっきりするまでは、決して安心できないのです。ベネッセコーポレーションを含む民間3社に退場していただくのは言うまでもありません。「委員長」といった肩書のついた人々やお友達の類、利益誘導を疑われる文教族の退場も当然ですね。そもそもこれは背任罪や贈収賄罪を構成するような、捜査対象になる案件ではないのでしょうか?少なくとも「自浄作用を期待する」というような次元の問題ではないと思います。2014(平成26)年6月の文科省の小委員会で、「入試を改革してゴール設定を変えればいい、そうすれば、予備校、塾、そして中学、高校教育も変わる」という「出口論」なるものを説いた民間企業の経営者は、入学試験とはentrance examinationであって「出口」などではないこと、大学入学後のための大学入試であることをよく認識できていないようでした。それにもかかわらず、その人物は「この提案に対する反応は、総理も含めて極めて前向きに是非やりたいという意向がある」と発言し、こうなるともう、また例の総理案件かと目され、反対意見など出せない雰囲気の下にことが進むのは、嘆かわしい忖度組織のことですから当然でしょう。それゆえ、こうした誤った影響力を行使する人物、それに唯々諾々と従う人物たちには、退場していただかなくてはならないのです。「責任」の所在は明白です。所謂「無責任の体系」で済まされてはならないでしょう。

きこえの良い正しそうな言葉を、声の大きな一部のお友達が威勢よく述べると、大勢はそれで決してしまい、疑問を抱いてきちんと一から検証しつつ考えようなどという声は、あたかも「何でも反対したがる反組織的、非協力的な者」であるかのように封殺されてしまう風潮があると感じます。報道メディアが公益性より自社利益を優先しているケースも見られます。迎合しない者を「非国民」などと名指して怒号とともに吊し上げる時代を想起し、こうした風潮を危ぶむことは杞憂でしょうか。